加藤菊造と「営企」の青春譜(4 – 電通報

転換期を迎えた電通

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1974年3月、アメリカの『アドバタイジング・エージ』誌は、前年の広告取扱高ランキングで電通が世界一となったと発表した。

電通がトップエージェンシーに昇りつめたその時こそ、日本経済は高度成長から安定成長への転換期に差し掛かっていた。オイルショックと為替の変動相場制移行によるドルショックという二つの激変のさなかにあったのだ。

電通も例外ではない。高度成長期のビジネスモデルからの脱皮と大胆な業態の変革が迫られていた。国際化、システム化、営業力の強化、経営管理の近代化等課題が山積する中で、電通独自の商品開発もまた喫緊の課題であった。

当時、広告会社は広告代理店とも呼ばれていた。広告主の代理として広告計画を実施する一方、媒体社の代理として広告の集稿を図ることがビジネスの中核であった。このような他者の代理機能にとどまらず、電通オリジナルの企画開発が求められていたのである。

「きっかけはアメリカ建国200年プロジェクトだった」。のちに加藤菊造の下で次長として営業企画局を作り上げる原動力となった長谷昭は、その前史を語り始めた。

1976年はアメリカ独立から200年にあたる。これを何らかのビジネスにつなげられないか、電通はそんな問題意識から梅垣哲郎専務を委員長、木暮剛平常務を副委員長とする、「アメリカ200年祭委員会」を設置し、局横断的にさまざまな企画の立案を行った。公式ガイドブックの製作や記念グッズのマーチャンダイジング、アメリカの新聞各紙への慶祝広告の掲載、デパート催事など多様な展開がなされた。カルピス担当の営業局次長兼部長だった菊造は、アメリカ200年記念のアニメ番組「草原の少女ローラ」をTBSで放送する作業でこのプロジェクトにかかわっている。

アメリカ200年祭 公式ガイドブックアメリカ200年祭 公式ガイドブック
電通発のこのプロジェクトにより、アメリカ建国200年は日本国内でも大きな関心を集めた。後に、電通に対しては在日アメリカ大使館から感謝状が贈られている。

この成功を受けて、組織横断的に電通のオリジナル企画を生み出して行こうという機運が社内で盛り上がり、1977年12月東京本社に営業開発委員会が新設された。その事務局長となったのが加藤菊造である。

営業開発委員会事務局は前出の長谷昭を含め、わずか4名の小さな所帯である。菊造と長谷は社内を駆けずり回り、ビジネスにつなげられる企画のシーズを探し回った。

国連年プロジェクトはこのころの成果の一つである。ラジオテレビ局の企画畑のある社員が、国連が特定課題を毎年取り上げ、全世界に課題の解決を呼びかける取り組みを行っていることに注目していた。

たまたま1979年は国際児童年と定められ、教育、福祉、文化、スポーツなど多様な側面で児童の健全な育成を図ろうとの呼びかけが国連からなされていた。

これを国内の社会的テーマとして取り上げられないか。その中で、どう電通のビジネスにつなげていけばいいのか、社内各部署からメンバーが集められ、営業開発委員会事務局を中心に検討が行われた。

さまざまな情報を集めてゆくと、政府の中では総理府の青少年対策室がこの動きに呼応して国内の対応を進めるらしいことが分かってきた。

早速、総理府と連絡を取ると、政府としても積極的に取り組んで行きたいとのこと。電通は総理府と連携しつつ民間主導で国際児童年のムーブメントの盛り上げを図ることとなった。

元日の新聞にはいくつもの別刷りが加わる。この別刷りのテーマ探しはそれぞれの新聞社で工夫されているが、電通が事前に各新聞社に働きかけた結果、各紙が児童年をテーマとした別刷りを組むこととなる。当然そこには児童の健全な育成に協力しようとする広告主が企業広告を掲載する。これを皮切りにそれぞれの企業がこどもに着目したキャンペーンを展開することになった。

テレビ各局も児童年の話題を取り上げ、ゴダイゴの歌う児童年のオフィシャルソング「ビューティフルネーム」の曲が巷に流れた。

年間を通してのプロジェクトの山場は8月に名古屋で開かれた「世界と日本のこども展」と東京の「宇宙科学博覧会」だ。他にも企業協賛によるさまざまな事業が繰り広げられた。

この成功を受け、国連年は81年の国際障害者年、83年の世界コミュニケーション年など、電通の主導する社会ムーブメントとして定着していった。

熟年キャンペーンについても触れておこう。

最初は酒の場での中高年の座興の一言「俺たち中年が歌える歌がない」がきっかけだったとされる。迫りくる高齢化社会を前向きに明るくとらえられないかという問題意識から、社内ボランティアにより「高齢化社会問題研究会」を立ち上げ、手分けして既存のデータを集め分析に取り掛かった。しかし、中高年層の意識やライフスタイルを扱ったデータは驚くほど少ない。そこで電通独自に中高年の意識調査を行い、高齢化社会のマーケティングの枠組みの検討を進めた。

ネガティブな語感の高齢化社会ではなく、前向きな響きのキーワードが必要と考え「熟年」の言葉を生み出す。シンポジウムや出版、テレビ番組の企画、CMへの反映などを通じ、中高年を生き生きとアクティブな存在としてとらえ直す呼びかけを行った。これにより、金融保険、旅行、健康医療をはじめ、中高年をターゲットとする業界のマーケティング戦略が様変わりした。1983年発刊の『広辞苑第三版』にも「熟年」の語は採用され、やがては「熟女」の派生語も生まれるなどこの言葉は急速に社会的に認知されていった。

熟年プロジェクトで協力を仰ぎ、シンポジウムでは基調講演をお願いした総合研究開発機構(NIRA)の下河辺淳理事長は、1985年のつくば博の事業運営担当理事を務めることになる。当時NIRAに出向しており、後年、営業企画局で部長を務めた産形靖彦によると、下河辺淳と菊造との関係は、電通がつくば博の作業を取り込むにあたって、大きな役割を果たしたという。

一つの仕事が、次の仕事につながるのだ。

熟年プロジェクトのメンバー。後列左から4人目が加藤菊造。ひとりおいて長谷昭、産形靖彦熟年プロジェクトのメンバー。後列左から4人目が加藤菊造。ひとりおいて長谷昭、産形靖彦

70年代後半に築地電通本社7階にあった営業開発委員会事務局は、壁面に海外資料を並べた書棚が配され、床には青いじゅうたんが敷かれた、社内でも一風変わった風景のおしゃれな部屋だった。

事務局長であった加藤菊造は、物静かに若手の話に耳を傾け、時に意見を述べ、折に触れて励ます包容力のある兄貴分だった。

こうした情報交換の中から、さまざまなプロジェクトにぜひやらせて欲しいと手を挙げる担当者が現れ、実現していった。

菊造自らが手掛け、実現にこぎつけた代表的なプロジェクトが女子マラソンである。

1979年11月18日、世界初の公式女子マラソンが東京の街を駆け抜けた。朝日新聞創刊百周年記念として、日本陸連と朝日新聞社の主催で開かれたこの大会は、42歳の英国人ジョイス・スミス夫人の優勝で幕を閉じた。
東京国際女子マラソンのシンボルマーク東京国際女子マラソンのシンボルマーク
それまでマラソンは女子には負担が重すぎるとされていたが、これを皮切りに毎年開催されるだけでなく、ロス以降オリンピックの正式種目となり、やがて日本に2つの金メダルをもたらす花形競技となった。それへの道を開いたのが加藤菊造である。

この時、菊造と一緒に未知の領域を攻め、熟年プロジェクトの中核として動いていた長谷昭も、後に営業企画局で菊造のさまざまなスポーツ関連企画をサポートする中須仁之も、女子マラソン実現に向けての菊造の動きをほとんど知らない。

今回、この原稿のために方々を聞きまわってはじめて知ったのは、営業時代にカルピスに提案すべく仕込んでいた女子マラソンが、営業開発委員会に移ってようやく実現したとのことだ。営業局で菊造の下にいた小林衛も森公佑も、菊造が女子マラソンの着想を得て、カルピスに提案するために朝日新聞の事業部と打ち合わせを重ねていたことをよく覚えていた。

中途半端に関係者を増やすとまとまる話もまとまらないとして、深く静かに潜航しつつ準備を進めていた。朝日新聞を介して日本陸連ともつながり、青木半治会長や安田誠克副会長からの厚い信頼を勝ち得ていった。

今でこそ東京でのマラソンの開催は珍しくないが、東京国際女子マラソンはアベベが優勝を飾った64年の東京五輪以来、はじめて東京で開かれた公式マラソン大会であった。実現のためには警察との細かい打ち合わせが必要だ。

大会を開こうにも、国内に女子マラソンの選手はいなかった。陸上長距離の選手や、市民ランナー、果ては体力を見込んで山岳部の女子部員にまで声をかけ参加選手を確保しなければならなかった。実現に向けてのさまざまな障害をひとつひとつ片づけていったのである。

東京国際女子マラソンの成功は思わぬ副産物をもたらした、マラソンブームの到来である。特にテレビ各局がマラソンに注目した。1982年には2月に読売日本テレビ東京マラソン、3月にはフジテレビが東京ニューヨーク友好マラソンを同じ東京で開催するなど、一挙にブームは盛り上がりを見せた、マラソン大会の実施のために、テレビ各局は菊造に協力を依頼する。1985年には広島で第一回ワールドカップマラソンが開催される。実現には至らなかったがロス五輪の前年にロサンゼルスで国際マラソンを開催することも準備していた。
「朝日新聞」1979年 9月13日付に掲載された社告「朝日新聞」1979年 9月13日付に掲載された社告
こうしてマラソン大会の実施ノウハウを積み重ね始めた菊造は、日本陸連からの絶大な信用を得て、マラソン界のキーマンになっていたのだ。

(文中敬称略)

◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。

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