『創業の原点に返れ』飯田建設と福岡・九州の土木の歩み(2) – NET-IB NEWS



土木分野へ本格的に進出

 飯田商店は、事業の多角化に着手し、1954年6月1日に福岡市大名町(現・中央区大名)2丁目98番地に飯田建設を創業した。この6月1日が同社の『創業の日』として定められている。そして、55年11月22日に資本金400万円で飯田土木(株)を設立し、飯田建設の事業を承継した。54年に始まる神武景気、岩戸景気と続く好況のなかでのスタートだった。このころのエピソードとして、前回記した筑後川の復旧工事において、八幡高炉セメントを納入した業者から売掛金の回収の代償として、ブルドーザーを引き取ったという。飯田敏弘代表はこのブルドーザーを活用し、下請工事を中心に事業展開を行った。飯田代表の「建設関連事業で国土再建に尽くす」信念を実現したのだ。当時ブルドーザーを所有する同業他社は少なく、希少価値が高かった。よって連日に渡って見学者が訪れた。飯田代表が同セメントを取り扱ったことと、セメント販売に連動してブルドーザーを引き取って事業展開に活用したことが、今日に至る同社とグループの事業の礎となっている。

事業の多角化へ

 58年6月10日に飯田土木と飯田商店が合併し、資本金400万円で飯田産業(株)が設立された。土木部と商事部を置くとともに、同年9月に飯田倉庫(株)(現・東亜倉庫(株))も吸収合併し(資本金800万円に増資)、新たに倉庫事業部を置いた。土木・建築業を中心にセメントおよび土木建築資材販売、不動産業、港湾荷役など事業を拡張した。

 当時、同社の事業は順調に推移していたものの、施工技術の向上と工事市場の拡大は、喫緊の課題となっていた。なかでも、飯田代表の“国土の建設に直接関連する” という信念により、公共工事への参入が目標となっていた。その後、以前から取引のあった九州地方建設局から有能な人材のスカウトに成功し、それまでの重機土工から土木工事へ進化・発展することとなった。人材の獲得を契機として、九州地方建設局をはじめとして、福岡県、福岡市、日本住宅公団(1981年10月解散。現・都市再生機構に事業を移管)などから受注し、道路、河川、宅地造成、橋梁の工事を手がけるようになっていった。公共工事の元請の第1号は、福岡市からの友泉中学校の運動場造成工事で、請負金額は当時359万円であった。前記したブルドーザーが施工能力の向上に貢献した。この実績が認められ、続けて筑紫丘小学校、若久小学校の運動場造成工事を受注。「当時の背景として教育施設の整備が最優先されていた」(吉原氏)という。

 その後、築城飛行場拡張工事(60年3月、西松建設下請、請負金額1億2,000万円)、東部ごみ焼却場整地と道路工事(60年5月、福岡市元請、請負金額1,548万円)、芦原護岸工事(60年9月、九州地方建設局元請、請負金額600万円)、長田堤防工事(60年9月、九州地方建設局元請 請負金額649万円)、平江橋工事(61年9月、九州地方建設局、請負金額1,637万円)、長尾(長住)地区第2回宅地造成工事(61年9月、日本住宅公団、請負金額4,941万円)、柿ノ木橋新設工事(64年10月、九州地方建設局、請負金額1,824万円)など、福岡のみならず九州各地の代表的なインフラの工事を手がけ、それらの工事を請負ながら技術力・施工力を高めていった。その間、同社第7期目の61年9月に3カ年計画予算を実施。初年度に10億円の売上高を目標として、62年8月期に10億1,241万円の売上高を達成した。技術・施工力の向上とともに、企業マネジメントにおいても、同社の経営基盤を作り上げることにまい進した。なお、吉原浩氏は福岡大学を卒業後、60年4月に同社へ入社した。

(つづく)
【河原 清明】



こんな記事も読まれています



コメントを残す